社会
Social
人間が、人間らしく生きる環境
Social
人間が、人間らしく生きる環境
2023.09.22
健康医学の創始者で弊社三保製薬研究所創業にも深く関わった西勝造は、1945年(昭和20年)8月1日に明治大学の教授に就任しています。
西勝造は明治大学の教室を借りて、健康法の講座を開講し、22年以上続けて実施していました。
第1土曜日は一般の健康法、第2土曜は西哲学購座、第3土曜は医師再教育の講座として、すべて無料で午後1時から3時まで、また質問にも応じ、個人の相談にも応じています。
また第4土曜には本部員による、実習指導を同じ場所で行わせています。
Meiji University, Auditorium
本稿は、この講座の第3土曜日に行われる「医師再教育講座」の講義内容を一部抜粋し、全4回にわたってご紹介しています。
Vol.1をご覧いただく場合は、下記のURLをクリックしてください。
https://minus-chokaz.jp/social/4125/
また本稿は、『土と腸』第8版の第6章に収載してあります。
もしご希望がございましたら、資料請求(無償)ください。
Vol. 1
⚫︎医学は人を騙す技術
Vol.2
⚫︎昔の人は丈夫だった
⚫︎病気の数もふえた
⚫︎医学の簡単化が必要である
Vol.3
⚫︎現代医学は科学ではない
⚫︎医学は健康を研究すべきものである
Vol.4
⚫︎仁術を忘れた現代医学
⚫︎医者は病人である弱者から養われている
⚫︎ヒポクラテスの誓い
一言にしてこれをいえば、現代の医学はわれわれの有する物理学や、化学のような科学でないということである。
科学とは、普遍的真理の発見、または一般的法則の運用法に関連して、体系化され、方式化された知識が堆積され、かつ容認されたものである。
分類された仕事、生活、もしくは真理の探究に役立つように整理されている知識。
包括された深遠な、もしくは哲学的な知識。
研究の独立した一分野、もしくは研究の対象と見なされている体系化された知識の一分科、または一部門などをいうのである。
いま、物理学を例に採ってみよう。
物理学は、天文学、化学、動物学、植物学、ならびに鉱物学等の諸学科とともに、物質、およびエネルギーに関する科学である。
われわれの周囲の活動的世界においては、物質はつねに現象をともない、現象はまた必ず物質に付随する。
凡百の物質と現象とは、変転推移して須臾(しゅゆ・少しの間)といえども静止することはない。
森羅万象の実在界は、このようにして常に変転活動している。
この活動の世界において、物理学の管轄する領域は、物体の構造、性質、ならびに変化等の研究と同時に、エネルギーの変化による多くの現象の論述である。
しかり、したがってその基礎をなすものは、「整然たる自然界の秩序の確信」であって、それはわれわれの祖先以来の経験に基づくものである。
ことばを換えていえば、原因結果の連鎖に疑いを差しはさまないとうことである。
いかなる現象も、必ずその原因があり、原因なくしては結果は起こらない。
よって、同一の原因からは、つねに同一の結果を生ずる。
時に、同一の結果にして、異なる原因より生ずるようにみえることがあっても、これを仔細に観察するときは、この異なる二つの原因は等価であって、互いに置換しうることを発見することができる。
ただ、同一の原因が、同一の結果を生ずるばかりではなく、適当なる測定法によれば、数量的にもひとしい結果をうるものである。
こうした法則を、因果の法則と名付けている。
この因果の法則は、一因一果の場合だけでなく、多くの原因からくる総合の結果も、これら種々の原因からくる結果の総合であることをも疑わない。
物理学は、この複雑なる原因ならびに結果たる森羅万象の実在界を研究し、これを貫く法則を発見する学問である。
しかし、物理学はこの原因結果の法則を発見するだけではなく、さらに進んでこれを人生における諸問題に応用し、その福祉を増進しなければならない。
医学においても、同様である。
医学においては、人体の構造、作用等を研究することを基として、疾病を除き健康を増進し、人類の福祉に貢献しなければならない。
それには、人間の健康と疾病とを貫く法則を発見することが必要でなければならぬ。
しかし、医学には、このような法則はない。
古来、この法則を発見しようとする努力も払われていない。
医学の進歩といえば、ただ、いたずらに分科に分割することであって、その分科における成果を人間の健康という一線に総合するという努力は皆無である。
分科が、医学の進歩と心得ている。
昔は、こういう分科はなかったようだ。
ゆえに、現代医学は必然的に支離滅裂となっている。
医学が、このように支離減裂となるのは、医学が畢竟(ひっきょう・究極)人間の健康という問題に重点を置いて研究することを忘れ、ただその特別なる状態である何々の病気の研究を事としているからにほかならない。
もちろん、医学は人間の病気を治すことも、その一つの重要なる目的であるかも知れない。
しかし、病気を治すことその事は最終の目的ではなく、病気を治すのは人間を健康にするためであるということを忘れている。
これを忘れているから、足を切ったり、手を切ったり、胸郭成形術などが出てくるのである。
病気のない健康で五体の揃った状態が、本当の姿の健康なるものである。
手術によって身体が損なわれたのでは、すでに健康ではない。
だとすれば、医学としては、その究極の目的である人間の健康という問題の研究に、 その全力を傾倒すべきではあるまいか。
試みに、東京都に例を取ってみよう。
東京都の人口は昭和25年(1950年)10月1日の国勢調査によると、市部、郡部合わせて、620万5190人となっている。
この中において、健康者が多いか、病人が多いかということを調べてみると、それは統計には記載されてないから、正確な数字ではないが、むろん健康者が病人より圧倒的に多いということは明らかである。
これによってみても、健康は人間の常態であって、病気は人間の異常状態であるということが理解できるであろう。
そうだとすると、古来医学は人間の常態である健康を研究せずして、その異常状態たる、つまり例外である病気の研究に没頭して、今日に至っているのである。
およそ学問の研究は、まずその正常な状態を研究するのが常道である。
そして、この常道から側道、または例外の問題に進むべきである。
医学が、この常道たる健康の研究に重きを置かず、もっぱら側道たる病気の研究に従事してきたから、数千年の歴史を有するにかかわらず、いまだ人間の健康という問題に一貫する一つの法則をも発見することができないのである。
もしも医学が、人間の健康という問題に、その研究を集中してきたならば、他の科学と同様にこれを貫く法則の発見は、そんなに困難なものではなかったであろう。
それというのも、人間の健康の状態なるものには、種々の段階があるとはいえ、これを病気の状態に比較するならば、それは遥かに簡単であり、したがって健康なるものを維持するに必要なる条件なり、法則なりは、そんなに複雑なものではないはずである。
それにもかかわらず、病気の数は非常に多い。
またその程度にもいろいろある。
根気のよい学者が数え上げた17万6000などいう膨大な病気の数にはいまは触れない。
厚生省の統計に現れた数だけでも、1200有余種ある。
そして、この中で病原のわかっているものとなっているものが340有余種、その残りの8百何十有余種は、原因不明であるという。
こういう複雑な状態の病気を、現代医学は取り扱っているのである。
せめて過半数でも病原がわかっているというのならまだしも、全数の七割余分までも、病原がわからないのでは諸君の学んでいる、また応用している医学が、学と名付けうるや否や、すこぶる疑問であるといわざるをえないと思う。