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知られざる宮中秘話 2〝予防医学〞こそ最上の医学

2023.07.28

弊社とのお付き合いが始まったばかりのお客さまには、

〝いきなり「宮中秘話」と言われても何のこと?〞

…だと思います。

一方、長年弊社とお付き合いくださっておりますお客さまには、改めてご案内するまでもございませんが、弊社三保製薬研究所は、

〝健康医学(西医学健康法)の創始者〞で、

〝日本の地下鉄の生みの親〞

〝(関東大震災からの復興における)東京都の都市計画原案作成者〞

でもある西勝造(工学博士)が発明した瀉下薬(第3類医薬品)を製造販売する目的で、勝造の依頼を受けて創業した経緯があります。

弊社の社名「三保製薬研究所」も西勝造による命名です。

 

西勝造 Katsuzo Nishi (Ph.D. in Engineering)

 

当時勝造は、宮内省(一木喜徳郎宮内大臣・関屋貞三郎宮内次官)の要請により、多くの宮家(宮号を賜った皇族の家)に直接、健康法を指導をしていました。

余談ですが、一木喜徳郎は静岡県生まれで、関屋貞三郎は第17代静岡県知事を務め、弊社の所在する静岡県に所縁のある人物です。

スイマグも宮中で使われていたようですが、宮中のことゆえ、どのようなことがあったのか、なかなか知る機会がないと思いますので、ご紹介したいと思います。

ビタミンの補給は柿の葉茶

 

西勝造は、1945年(昭和20年)8月1日に明治大学の教授に就任していますが、本稿は、1948年(昭和23年)9月4日に明治大学講堂における大講演会の速記から、一部を抜粋したものです。

ちなみに(日本では)、1945年8月15日に終戦を迎えています。

 

明治大学講堂

 

私は毎月当校(明治大学)の教室を拝借して、健康法のお話を無料でしております。

これはもう22年間連続に、戦争中といえどもいたして参りました。

第1土曜日は一般の健康法、第2土曜は西哲学購座、第3土曜は医師再教育の講座として、すべて無料で午後1時から3時までお話しいたし、また質問にも応じ、個人のご相談にも応ずることになっております。

また第4土曜には本部員をして、実習指導を同じ場所で行わせています。

 

北白川宮房子内親王 Princess Fusako of Kitashirakawa

 

つい先だって私が立教大学で講演いたしておりますと、元の北白川宮様(北白川宮房子内親王)から、ほんとの宮様(東久邇宮殿下)もおられるから、おいで願いたいという電話がかかって参りました。

 

さっそく駈けつけますと、

〝西先生は2年前から柿の葉のことは秘密にしておいてくれと仰っていたが、最近は、ラジオでも医者が放送するようになりました。

今でも秘密にしなければなりませんか?〞

とおっしゃるのでございます。

 

 

〝いやぁ、もう現在では医者も認めてきたのですから秘密にしていただく必要はありません。

2年前にあれを発表しますと、とかく医者の連中が邪魔をするのでしばらく秘密にしていただきたいと申し上げたのですが、今では秘密ではございません。〞

 

〝実はうち方では柿の葉からとったビタミンをわずか20グラムずつ赤ん坊に与えておるから、赤ん坊のお尻がただれるようなことは絶対にない。

また歯のゆるむこともなければ、風邪を引くこともない。〞

と申しておられました。

 

柿の葉には実にビタミンを豊富に含んでおるのであります。

これの製造法については西会のほうに印刷物がありますので、銀座のほうをお通りのさいにはお寄り下さってもらって読んでいただきたいと思います。

この柿の葉は11月の10日ごろまでは有効であります。

一枚の柿の葉を1.8リットルの熱湯で煎じてつくりますと、1グラム当たりビタミンの含有量は番茶の2、3倍も含有されております。

先ほど申しましたように足に故障を起こせば微熱が出る、微熱が出ればビタミンを破壊してスカービーになり、歯がゆるんでくる。

これは皆ビタミンの欠乏からであります。

そして足に故障があれば腎臓が悪くなり、精神までも異常を起こしてくるのでありますが、この足の故障は西医学健康法によって本復する事ができるのであります。

どうぞひとつ西医学によって足を完全にしていただきたいと思います。

そうすれば風邪にも罹らず、結核などいう病気は無くなるのであります。

 

前立腺肥大は脚力と生食

 

本稿は、1952年(昭和27年)4月10日、健康日本社発行の『脳出血について』(西勝造による「25周年記念講演会」の速記)から一部を抜粋したものです。

 

終戦後七年の処刑を受け、ついこのあいだ追放を解除されました元外務大臣の奥さんのお父さん、この方も今年80何歳で、府知事を最後に辞められたのですが、西会の顧問をされている本年90歳の佐藤潤象さんとは非常な親友で、お互いに漢詩でもって、手紙のやりとりをしている間柄ですが、娘婿である元外務大臣をされた方が、7年の処刑を受けられたことなどで非常に心配されまして、2、3日眠れないといっているうちに脳出血をおこしてしまいました。

 

そうすると元府知事をした方でありますから、すぐに、その地の医大の学長F博士が呼ばれました。

しかし博士は、

〝まあまあお年がお年だから注射など痛い思いをするよりは、このまま無事に目をつぶらしたほうがいいですよ。〞

と言って何もしないで帰ってしまった。

 

あまりに心もとないので、いま一人の医者を呼ぶと、その医者もまた、

〝もう先生が診られたのなら私もその通りにします。〞

と言って帰ってしまった。

 

そこで、

実はおっしゃった通り脳出血になりました…。

 

それはこの方が、ずっと以前私が講演に参ったときに、

私はなんで死ぬでしょう?

 

〝そうですね、あなたは脳出血ですね。

しかし西式を実行されれば、まあまあ80歳以上までは保証します。

だからいまからおやりなさい。

けれども前立腺肥大だけは、いますぐ治したらいいでしょう。〞

というような話をしたことがあるのです。

Benign prostatic hyperplasia, 3D illustration showing normal and enlarged prostate gland

 

〝どうして私が前立腺肥大だということがわかったのです?〞

〝それはあなたは今朝は来訪者が多くて、とうとう便所に行くひまがなかったと言って便所に行って帰ってこられると、また小首をかしげて前のボタンをはずして便所に行かれた。

大便をすまして出てこられて、まだあとに小便が残っているなという感じのする人は、前立腺肥大です。〞

 

〝一体前立腺肥大というのは、どうしておこるのですか?〞

 

〝それは若い時分のことを夢見たり、ある仕事が途中でやめになったり、あるいは長びいたりいたしますと、ちょうど尿道の出口のところにヘチマのような内容の格好をした前立腺があるのですが、その中にある液体が外へ滲み出して行って不発に終わるものですから、だんだんとそこへ沈滞をする。

〝そうすると外へ膨らむわけにいかないから尿道が狭まって来て尿閉に陥る。

〝そこで大便をすまして出てきて、また前のボタンをはずして便所に行くようになるのです。

〝これが前立腺肥大の特徴です。〞

 

〝なるほど、そういわれれば先生のおっしゃるとおり確かに身に覚えがあります。〞

 

いったいそういうものを治すにはどうするかというと、天井から1.8キロくらいの目方のものを吊るし、寝ておって足でけあげる。

これが1分間に60回やっても平気になったら375グラムを加える。

またそれが平気に1分間60回できるようになったら375グラム加えるというようにして、最後は9.3キロに達するごとく運動を始めるのであります。

ところが、つい3カ月ばかりの間にすっかりと治ってしまいました。

それからすでに20数年経っております。

 

ところが今度脳出血をおこされ、当地の医大の学長からもう見込みなしと捨てられて、私のほうに電話がかかって参ったのであります。

それには味噌湿布をしてかくかくしかじか。

大阪には難波主事もおれば、樫尾医学士がいるからそれを呼んで指導を受けなさい。

ちょうどそれから四日目でございます。

私が関西地方の講演のため大阪の梅田に着きますと、すぐにその方の家に連れて行かれました。

私が病人のところへ行くということは、もう医者が見捨てたところか、主治医の了解のあったところでなければ行きません。

 

宮様の話がなぜ多いか?

 

よく私の話には宮様(東久邇宮殿下)の話が多いとご非難をされる方がありますが、元宮様のところだけは、宮様が医者に対して西が来るからここにおれ、と言われれば絶対に釘づけになるのです。

 

※ 西勝造は、医師免許を取得していませんから、「医師の立ち会いの下でなければ、治療や相談を受けない」というスタンスを堅持してしていました。

 

三井 高陽 Baron Takaharu Mitsui 

だから宮様のところへ平気でどこへでも、私は参るのでありますが、これが民間となりますと、なかなかそうは行かぬのであります。

かつて 三井男爵(三井 高陽・みつい たかはる)の奥方(一条実孝の娘、正子)が、リウマチ、神経痛で寝ておられるとき、兜町で大きな株屋をやっている社長から、私に行ってもらうように依頼されました。

 

この男爵の本宅は、いまの私の宅(杉並区高円寺)に来られたことのある、GHQの法律顧問ジョセフ・キーナン大佐(東京裁判の主席検察官)の宿舎※として接収されておりますが、

〝主治医がおれば行きましょう。〞

というので、その社長と一緒に三井家に参りました。

 

※昭和初期に建てられた高陽の邸宅(文京区目白台)は、留学経験のある大企業家・華族の嗜好が反映されたスパニッシュ風の建築物であり、学術的にも高い評価を受けていた。

第二次世界大戦後には、極東国際軍事裁判(東京裁判)における首席検事、ジョセフ・キーナン※の宿舎として使われ、その後は講談社第一別館となっていた。2006年(平成18年)、耐震性増強工事のコストが新築コストよりも高いと判断され、解体された。

また、東京都千代田区九段南にあるイタリア文化会館の土地は、高陽が第二次世界大戦前にイタリア政府に寄贈したものである。

同会館は戦時中に完成・開館したが、東京大空襲によって一部が破壊された。

 

西勝造とジョセフ・キーナンとの会談の様子は、弊社冊子『土と腸』(第7版)に収載してありますので、ご興味がありましたら参照ください。

●資料請求(無償)につきましては、文末にURLを記載してありますので、クリックしてご請求ください。

 

ところが家令※の申しますのには、

〝主治医は別の医者が来るのならば立ち合うけれども、西のように素人では立ち合う必要はないと言って帰ってしまいました。〞

だからいくら男爵家でも、民間では医者におれと言っても、 側に引きつけておくことはできなかったのであります。

医者がいなければ私は帰ります。

 

〝でもせっかく来たのですからどうぞ…。〞

 

※家令:明治時代以降の日本において、皇族や華族の家で、家の事務や会計を管理したり、他の雇い人を監督した人。執事。

 

仕方ないものですから、ついに私は奥方の前に出ることにいたしました。

すると奥方は、

〝お前はそんなことを発明したのかい。〞

 

〝ええッ?〞

これには恐れ入りました。

 

私はずいぶん宮家には出入りしておりますが、こういう言葉を聞かされたのははじめてです。

あわてたのは一緒に行った社長さんであります。

 

〝いや、ただいまは東京市の高級技師でございます。〞

〝わかっているよ、わかっているよ。〞

〝お前はなにかい、毎日来て揉んでくれるかい?〞

〝恐れ入ります。

まことにもってお言葉を返すようでございますが、毎日私はおさすりに参ることはできないのでござります。〞

 

こちらは宮家に出入りしておりますので、どんな言葉でも知っております。

 

〝なにかい、どんな病気でも治るとでも思っているのかい?〞

〝ははッ、これはご実行ひとつでござります。

ご実行遊ばされなければ、いかなる御方様といえども、お治り遊ばすことはできないのであります。〞

 

〝ああ、そうかい。

それではよろしい。

用があったときには呼ぶからまたおいで。〞

 

〝ははッ、ありがたき仕合せでございます。〞(笑声 )

 

一緒に行った社長はもうえらく恐縮しながらも、

〝どうも先生、なんとも申し訳ありませんでした。

でも先生は実に場慣れをしていらっしゃいますね。

ちっとも怒った顔をされなかった。〞

 

〝いやあ、あれはああいう神経衰弱ですよ。〞

 

その後、今度の戦争が終えまして、大磯で講演会がありましたとき、立教大学の中川教授をはじめ、駅に迎えに来られた10人ばかりの方々と一緒に、ぞろぞろ会場に向って行きますと、向こうから跛行(はこう)※で、手には籠をさげ、簡単服を着、12、3歳のお嬢さんを連れて来る婦人がありました。

 

※跛行(はこう):歩くときにうまく体重を支えられず、足を引きずって歩くこと。

 

さてどっかで見たことのある婦人だなと思っているうちに、ひょっと横のほうに曲がって見えなくなりましたが、

〝あれが元三井男爵の夫人です。〞

というのではじめて思い出しました。

 

しかし二度目に大磯に行ったときには、

〝先月亡くなりました。〞

ということでありました。

 

そういうわけで元男爵で飛ぶ鳥を落とす力のある大金持でいらっしゃいましても、私が医者の立ち会いを求めても、医者を側にひきつけておくことができないのであります。

いわんや平民に至っては、なかなか医者を側へ寄せつけておくだけの実力はない。

だから私の治療経験は宮様以外にはないのであります。

宮様以外には治療経験がないため自然に宮様に関する話が多くなるのでありまして、別段好んで宮様の話を出しているわけではないのであります。

 

とくに軍盛んのころの宮殿下の方で、

〝西よ決して遠慮はいらない、内方のことが参考になるなら、多くの人々のために、お話しをしてあげて下さい。〞

などと、お言葉を頂いているからです。

 

それはさておきまして、先ほどの府知事の方は、1週間目には早くも部屋の中を歩かれるようになり、その夏には沼津の息子さんの別宅に避暑においでになり、10月には元外務大臣の処刑を聞きに東京までおいでになり、11月には方面委員の創始者として天皇陛下から木盃をいただかれ、いまなお健全であります。

そういうわけでありますから脳出血にしても何にしても、いまの医者にかかるから治りもしなければ、悪化もするのでありまして、私のほうとは縁もゆかりもないのであります。

 

現代の医学は病気になったのを治そうとするのが商売でありますが、西医学は病気にならない医学なのであります。

これが本当の医学なのであります。

 

〝予防医学〞こそ最上の医学

 

明治天皇の多くの子女(大正天皇の兄弟姉妹)が夭折し、成人した者も多くは40-50代で死去している中、臣籍降下(いわゆる皇籍離脱)後も存命かつ長命だったのは、房子様と妹の東久邇聡子様のみでした。

また、東久邇宮稔彦王も歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(10248日=37303日で死去)でしたが、筆者は、「予防医学(西医学健康法)」をご熱心にご実践された賜物だと考えております。

 

そもそも「医学」とは、わたしたち〝人間が生涯を健康でいられるための学問〞です。

病気に罹らないための「健康医学」であり「予防医学」です。

病気になってから目先の症状に「対症療法」を施すといった類のものではありません。

 

当時西勝造が将来の社会環境、とくにライフスタイルを予測し発明したのが「スイマグ」でした。

つまり、〝日本の食生活は外来の不健康な食習慣に冒され、腸内腐敗を発端因とする疾病(生活習慣病)を引き起こす人が激増するだろう〞

そうした深慮のもとに「予防薬」として開発されたわけです。

よく〝便秘になってから瀉下薬を服用する〞という方がいらっしゃいますが、もしこの時、腸内で腐敗発酵が起こっていたとしたら、どうなるでしょうか?

酸性腐敗便がつくり出した「有害物質」は、大腸の直腸から解毒器官である肝臓を通らず再吸収されて全身を循環し、さまざまな器官や臓器の細胞に障害を与えます。

また、ダイオキシンなどの水に溶けない「脂溶性の有害物質」は、脂肪細胞に蓄積され、なかなか排出できない「宿便」の元になります。

脂肪に蓄積した毒素を排出するためには「断食療法」が必須です。

生活習慣病は、こうした毒素を長い期間蓄積した結果として発症します。

当然ながら「免疫系」も疲弊して、感染症に侵されやすくなります。

人体の健康にとって最も大切なのは、「自然治癒力」を維持・強化することです。

ですから、便秘なってからでは遅いのです。

排泄は、単なる生理現象ではありません。

デトックス(解毒)の最終段階なのです。

スイマグは、〝便秘にならない、腸内腐敗を引き起こさない〞、ひいては〝病気にならない〞ための「予防薬」なのです。

 

 

目の前の小さな現象に目を奪われて、

遠い目標を見失ってはならない

 

東久邇宮稔彦王

Prince Naruhiko of Higashikuni

 

 


 

Footnote

一木 喜德郞(いっき / いつき/ いちき きとくろう)

慶応3年4月4日(1867年5月7日) – 昭和19年(1944年)12月17日)

日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階・勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧氏名は岡田 丘平。号は梁舟。

帝国大学法科大学教授、貴族院議員、法制局長官(第10代)、文部大臣(第26代)、内務大臣(第33代)、帝国学士院会員、宮内大臣(第9代)、枢密院議長(第16代)などを歴任した。

公法学を専門とする法学者であり、帝国大学の法科大学にて教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。

天皇機関説を提唱したことで知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めた。のちに天皇機関説事件において、美濃部らとともに激しい批判に晒された。

また、貴族院議員に勅選され、政界に転じてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。

宮中においては、宮内大臣や枢密院議長を務めた。また、父である岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた。

 

関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう)

1875年〈明治8年〉5月4日 – 1950年〈昭和25年〉6月10日)

日本の官僚・政治家。

宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。

 

北白川 房子(きたしらかわ ふさこ)

1890年〈明治23年〉1月28日 – 1974年〈昭和49年〉8月11日)

日本の旧皇族。北白川宮成久王の妃。明治天皇の第7皇女子。母は、園基祥伯爵令嬢・園祥子。旧名は、房子内親王(ふさこないしんのう) 、諱は房子(ふさこ)、御称号は周宮(かねのみや)、お印は亀。結婚から皇籍離脱前までの名は、成久王妃 房子内親王(なるひさおうひ ふさこないしんのう)。

大正天皇は異母兄、昭和天皇は甥、上皇は大甥、今上天皇は曽姪孫にあたる。

1890年(明治23年)1月28日、父帝の明治天皇第7皇女子として誕生。母は園祥子。

幼少時より、すぐ上の姉・常宮昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)とともに高輪御殿で養育される。

1904年(明治37年)、日露戦争の折りには姉妹で全戦没者の氏名・没地等を直筆で書いた名簿を御殿の一室で祀っていた。

その後、この直筆の名簿は靖国神社に奉納されている。

1909年(明治42年)4月29日、北白川宮成久王と結婚する。

前日付で、勲一等宝冠章を受章。

家庭的な良妻賢母で、成久王によく尽くした。

1917年(大正6年)秋、夫妻で台湾を訪問し、10月26日には成久王の父北白川宮能久親王(乙未戦争中、台南で殉職)を祀る北白川宮御遺跡所を夫妻で参拝。

10月28日には台北の台湾神社を参拝し、義父を偲んで次の和歌を詠んだ。

「 なみならぬ かをりとどめて たかさごの 島根の花と 散りし君は

新高の山より高く仰がるる おほきいさおは 千代もくちせし

—北白川宮妃房子内親王(『臺灣神社誌』より)

11月2日にも台湾神社を参拝した。

1923年(大正12年)、成久王らと供にフランス遊学中に成久王の運転する車が事故を起こし成久王は即死、房子も複雑骨折の大怪我を負い、このため以後は足が不自由となる。

長男の永久王に対しては、明治天皇皇女らしく武芸を重んじ、その教育に熱心かつ厳しかった。

1940年(昭和15年)9月、永久王が出征中、張家口での演習中に殉職(事故死)するという悲運に見舞われる。

亡骸が北白川宮邸に帰還した際も、房子内親王は気丈に振る舞い「長い間ご苦労様でありました」とその『戦死』を讃えた。

葬儀の際、房子内親王の希望で、永久王の亡骸は、高輪の北白川宮邸から豊島岡墓地まで砲車で運ばれた。

戦後は1947年(昭和22年)に女性初の神宮祭主となり、神社本庁総裁も務める。

同年10月14日、皇室典範第11条1項により皇籍を離脱し、以後は「北白川 房子(きたしらかわ ふさこ)」と名乗る。

戦後の混乱期を実質的な女当主として借家住まいなどの苦労を重ね財産の保持に尽力、旧宮家では没落を免れた数少ない例となった。

皇室関係者からは明治天皇の皇女として生まれながら数々の不遇にも負けない生き方を賞賛して、皇族時代と同じように「房子大妃」や「大妃様」など呼ばれていたという。

旧社格が郷社であった当時の太皷谷稲成神社の本殿新調に際しても、異例ながら親筆社名軸・親筆和歌二首を奉納している(現存)。

1974年(昭和49年)8月11日、老衰のため宮内庁病院にて死去。

 

東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)

1887年〈明治20年〉12月3日 – 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。

陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。

第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。

憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。

内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化[4]、占領軍受け入れ[4]などを実施した。

しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。

在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。

内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。

歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。

千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。

香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。

 

三井 高陽(みつい たかはる)

1900年(明治33年)7月10日 – 1983年(昭和58年)5月19日)

日本の華族。爵位は男爵。三井財閥の創業者一族である三井十一家のうち南家の10代目当主。

1900年(明治33年)、三井南家の跡取り息子として東京府に生まれる。

1922年(大正11年)、慶應義塾大学理財科・慶應義塾大学院を修了した後、三井鉱山に入社。

ドイツに留学し、経済史、交通史などを修得して帰国した。

慶應義塾や逓信省の付属研究所で講師をつとめた後、三井物産や三井鉱山の取締役、三井船舶の初代社長などを歴任した。

父の死去に伴い1937年(昭和12年)2月1日に男爵を襲爵した。

また郵趣家でもあり、とりわけ軍事郵便の研究者として、『世界軍事郵便概要』(増井幸雄と共著、国際交通文化協会、1939年)など切手に関する著作を書いた。

戦後は公職追放。女子美術大学理事長などを務めながら、ほぼ切手コレクターとしての活動に余生を費やした。

 

ジョセフ・ベリー・キーナンJoseph Berry Keenan

1888年1月17日- 1954年12月8日

アメリカ合衆国の政治家、弁護士。東京裁判においては首席検察官を務めた。

ロードアイランド州・ポータケットに生まれる。

1910年にブラウン大学を卒業した後、ハーバード大学のロー・スクールを経て、オハイオ州クリーブランドで弁護士を開業する。

第一次世界大戦時には、第137野戦砲兵隊の将校としてヨーロッパ戦線に従軍する。除隊後はオハイオ州の検事総長補佐となる。

1932年の大統領選では、民主党のフランクリン・ルーズベルトを応援したことから、ルーズベルト政権の誕生に伴い、連邦政府司法長官特別補佐官に任命され、中央への進出を果たすこととなる。ここでキーナンは、暴力犯罪の防止策を講じ、ギャングの一掃に尽力した。

さらに、犯罪増加の全国情勢調査を指導し、FBIの機構拡大を含む必要な法律に関する報告を議会に提出した。

後に、全米の検察業務を統括する司法省刑事部局長に就任し、ギャングや誘拐犯等の検挙、取り締まりを指揮し、司法長官補にまで昇進したが、1939年に退職し、ワシントンD.C.とクリーブランドで再び弁護士を開業する。

中央にいた頃は、予算の均衡を保つ技術に長けていることで知られていた。

第二次世界大戦後には、それまでの功績を買われ、1945年11月29日にハリー・S・トルーマン大統領から、日本の戦争犯罪者捜査の法律顧問団団長に任命。

同年12月6日に東京に入り、翌7日にはダグラス・マッカーサーと会談。

戦争犯罪者の裁判に関して意見の一致をみた後、東京放送会館で記者会見を行った。

 

出典:『西勝造著作集』たにぐち書店

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