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知られざる宮中秘話 1「御肛門と御大切の御間に、御おできが…」

2023.05.05

昭和の初期、宮中では現代医学だけではなくて、健康医学も取り入れられ、皇族の方々の「ウェルビーイング」を支えていました。

ウェルビーイングという概念は、わたしたちにとって健康になることは「ゴール」ではなくて、「幸せになるための必要条件」と解釈すべきもので、「ヘルスケア」や「ウェルネス」の先にある考え方です。

つまり、「いかに自分らしい幸せな生き方、ライフスタイルを実現するか」、その土台となるものということです。

 

西医学健康法(健康医学)を宮中へとりいれることについて、西勝造のもとに相談があったのは昭和3、4年頃のことです。

一木喜徳郎(いつき きとくろう)宮内大臣・関屋宮内次官の指示のもとに宮内事務官が、関屋次官の名刺を持って西邸を訪れたのがはじまりです。

このときの宮内省による身辺調査は、相当慎重に、かつ念入りに行われたようです。

西邸のご近所さんへの聞き取り調査などもあったと、文献にも記録されています。

 

一木喜徳郎 第9代宮内大臣

 

宮家にはそれぞれ御典医といいますか侍医がついていて、それもドイツ医学一辺倒の現代医学の東大などの「名医」たちがとりまいていました。

その影響か、昭和天皇の母上にあたる貞明皇太后は「国の認定した医学医療以外は行わない」とはっきりおっしゃっていたそうです。

ご自身がおっしゃったかどうかは不明ですが……。

そうした四面楚歌のような状況でも、当時の宮内省からの依頼で西勝造は、賀陽宮、北白川宮、東久邇宮、竹田宮、東伏見宮、それに日韓併合当時の李王殿下夫妻などに直接指導され、宮家の方々は大変ご熱心に西医学・健康法を実践されていたのです。

勝造は、賀陽宮、北白川宮、李王殿下、東伏見宮、竹田宮などへ出入りされていた様ですが、北白川宮王妃、東久邇宮や李王殿下、東伏見宮などがとりわけ御熱心だったといいます。

東久邇宮殿下や李王殿下は、皇族をはなれられてからもなお御熱心だったということです。

 

ということで今回は趣向を変えまして、1951年(昭和26年)に西医学健康法の創始者・西勝造が東京の工学院大学で行った講演会の速記録から、一部を抜粋して、実際に「宮中で行われた自然療法の一例」をご紹介します。

西勝造は、1902年(明治35年)2月に工手学校(現工学院大学)本科土木科に入学しましたが、この当時東京で土木工学を教える大学は一つしかなかったそうです。

余談ですが、西勝造は1949年(昭和24年)2月8日に、工学院大学の理事に就任しています。

(以下、『西医学』第14巻3号に掲載された『狭心症について』講演速記より)

 


 

今日ここに、来ていらっしゃるかもしれませんが、かつて私は大和寝台自動車の社長の和田さんから頼まれまして、元京成電車の社長が、中耳炎の手術のため慶應病院に入っていらっしゃったが、いくらインスリンを施しても糖が消えず、手術ができなくて困っているというので、慶應病院まで引っ張って行かれたことがございます。

私はこの人に生菜食を勧めたのであります。

 

そこで和田さんが、毎日自宅から生野菜のすりつぶしたのを、重箱にいっぱい詰めて持って行き、それを食べるようにいたしました。

ところが、一週間ばかりで糖は出なくなりました。

そこで慶應病院の先生は、

「不思議なことに、急に糖が出なくなった。これなら手術ができる」と。

ところが手術をしなくても、中耳炎まで治ってしまっていたのであります。

 

General Prince Higashikuni Naruhiko

 

さる尊いお方様(東久邇宮稔彦王)から、すぐ来いということでございましたので駆けつけますと、かねてから「医者と立会いでなければ、絶対にご相談には乗りません」ということになっておりましたので、やはり医者が立会っておりました。

※ 西勝造は、医師免許を取得していませんから、「医師の立ち会いの下でなければ、治療や相談を受けない」というスタンスを堅持してしていました。

ところが私は「これは、ご辞退申し上げます」と申しました。

 

それはなぜかと申しますと、その当時の言葉で申しますと、「御肛門と御大切の御間に、御おできが御できあそばしまして、御手術をあそばすか、西医学をもってお治し申し上げるか」(笑声)、こういうことであったのでございます。

あまり御の字が多くて、ときには、「私の御手がお触れあそばして…」なんて、御の字をつけそこなって慌てたこともございましたが(笑声)、そのときにはご辞退をいたしました。

 

 

すると、ご両親様(久邇宮朝彦親王・寺尾宇多子様)から、

西が辞退するとすれば、なにか悪性なのか?」

西:「いや、悪性ではございませんが、お場所がお場所でございますから…」

ご両親様:「場所は、どこでもいいではないか」

西:「いいえ、そうは参りません。私としてはご辞退申し上げるよりほかございません」

 

なんでも、辞退一本槍です。

 

とうとうそれではというので、東大の某博士がよばれました。

その結果、手術をするのはまだ早い、一週間待ちましょうということになりました。

東大某博士:「手術はどこでいたしましょうか?」

殿下:「それは相談する者があるからしばらく待て」

 

そこでふたたび、私がよばれました。

殿下:「手術は、どこでするのがいいか?」

西:「それは、御殿がよろしゅうございましょう」

 

ついに手術は御殿で、ということになったのですが、申し訳ないことですが、デタラメを申し上げたのであります。

もし西が出入りしているのに、東大に入院されたなどと新聞に出ては、西医学の名誉でございませんので、ただそう申し上げただけだったのであります。

さすがに、私も冷や汗をかきましたが、とにかく東大の某博士は、もっと化膿したところで切れば、切りばえがあると申しましょうか、手術の日までもう一週間とか五日間待つということになりました。

 

手術までに五、六日間も間があるというのであれば、こちらとしてはまことに幸いであります。

さっそく私は、

「御手術まで少しでもお軽くなるように」

と申しまして、芋薬をお貼りになるようお勧めいたしたのであります。

 

芋薬のつくり方は、私の雑誌をご覧くだされば、詳しく出ておりますが、里芋をよく洗って干し、皮が焦げる程度に火を焙り、皮をむいて、おろし金でおろしたものをテン(10グラム)それによくふるったウドン粉をテン(10グラム)、食塩をツー(2グラム)生姜を皮のままおろしたのをツー(2グラム)を、よく練り合わせてつくるのであります。

テン・テン・ツー・ツーは、アメリカの人にもよくわかるように、とこいう言い方をしたのでありますが、練り合わせる割合は、このテン・テン・ツー・ツーで覚えるのが、一番覚えやすいようであります。

ファイブ・ファイブ・ワン・ワンでもいいわけですが、これではなんだか犬みたいなようでよくありません(笑声)。

 

こうしてつくりました芋薬を、御肛門と御大切との御間にお貼り申し上げたのであります。

40度(華氏104度)もお熱がおありあそばされたのでありますから、芋薬はすぐ乾いてしまいます。

乾けばすぐにおとりかえをします。

とうとう八回目に孔が開いて膿が出て、たちまちにしてお治りになったのであります。

お熱のある間は脚湯をやり、生の野菜を召し上がっていただきました。

 

ドイツの有名な自然療法医アルフレッド・ブラウクレ博土の言葉に、次のようなものがあります。

 

われに熱を誘発する力をあたえよ、さらば、わたしはいかなる疾病をも快癒せん。

“Gib mir die Kraft, ein Fieber zu erregen, und ich werde dir jede Krankheit heilen”

Alfred Karl Brauchle, M. D.

 

発熱には脚湯、発汗には失った水分、塩分、ビタミンCを補給するということであります。

 


 

いかがでしたか?

東久邇宮稔彦王は皇族としては異例の内閣総理大臣に就任し、戦後処理にあたられた方ですが、歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日)となっています。

 

第43代 東久邇内閣

 

やはり、西医学健康法を御熱心に御実践された賜物なのでしょうか!?

殿下は、スイマグも「御召しあがりになって」いたようです。

あれ、「御服用」でしょうか?!

… この言葉遣いは合っていますか?

 

余談ですが、東久邇宮稔彦王は政権当時、国民の意見を国政に反映したいと考え、

「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。

嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。

参考としたい」

と呼びかけたといいます。

すると毎日数百通に上る国民からの手紙が舞い込んできたということです。

 

1945年9月27日,ダグラス・マッカーサー元帥が昭和天皇と会見

 

また、GHQのダグラス・マッカーサー元帥に面会した際、

「アメリカは封建的遺物の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。

もし元帥が不適当とみるなら、私は明日にも首相を辞める」

と述べています。

これに対し、マッカーサー元帥は、

「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか、非民主主義と言うのは、その人の生まれた家柄を言うので、あなたの思想・行動は非民主主義とは思わない」

と対応したそうです。

 

そして第二次世界大戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り、

「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。

誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」

とも書き記しています…。

考えさせられますねぇ。

 

ところで西勝造は、まったくユーモアに富んだ人だったようです。

話しが面白く、ネタが豊富なところに、似顔絵のうまさと、申年(さるどし)生まれのモノマネ上手とが加わって、講演会の演壇に立てば、難しい医学を、聴衆を笑い転げさせながら頭に染みわたらせたそうです。

その手際は、長年の修練も加わって天下一品だったと伝わっています。

それにしても発熱は、体内の病原をやっつける重要な生理作用、つまり「自然治癒力」なのですね。

しかし、過度の発熱には厳重な注意が必要です。

体温計のメモリが42度までしかないのには、理由がありますよね !?

わたしたちヒトは、42度よりも高い熱が出ると命の危険があるんです💦

 

 


 

Reference & Footnote

 

『狭心症について』講演速記より『西医学』第14巻3号 

一木 喜德郞(いっき / いつき/ いちき きとくろう、慶応3年4月4日(1867年5月7日) – 昭和19年(1944年)12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階・勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧氏名は岡田 丘平。号は梁舟。
帝国大学法科大学教授、貴族院議員、法制局長官(第10代)、文部大臣(第26代)、内務大臣(第33代)、帝国学士院会員、宮内大臣(第9代)、枢密院議長(第16代)などを歴任した。
公法学を専門とする法学者であり、帝国大学の法科大学にて教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことで知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めた。のちに天皇機関説事件において、美濃部らとともに激しい批判に晒された。また、貴族院議員に勅選され、政界に転じてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。宮中においては、宮内大臣や枢密院議長を務めた。また、父である岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた。

生年月日 1867年5月7日(慶応3年4月4日)
出生地 遠江国佐野郡倉真村
没年月日 1944年12月17日(77歳没)
出身校 帝国大学法科大学卒業
前職 帝国大学法科大学教授
現職 大日本報徳社社長
称号 JPN Daikun’i kikkasho BAR.svg 大勲位菊花大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1887年)
親族 岡田良一郎(父)
岡田良平(兄)
日本の旗 第29代 内務大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年8月10日 – 1916年10月9日
日本の旗 第26代 文部大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 – 1915年8月10日
日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1900年9月26日 – 1917年8月30日


東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 – 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。

陸士20期・陸大26期。

最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。

第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。

内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。

しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。

在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。

内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。

歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。

また、東久邇は記録の確かな日本皇族(皇籍離脱した者を含む)の中での最長寿者であったが、2014年(平成26年)に遷化した東伏見慈洽(103歳7か月16日=37851日。香淳皇后の弟、東久邇の甥)によって更新された。

東久邇が死去した当時、彼は内閣総理大臣経験者で最古参(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)でもあり、19世紀生まれの首相経験者で最後の存命者であった(1978年の片山哲没後は最年長にもなっていた)。また、元陸海軍大将では最後の存命者でもあった。

千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。

香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。

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