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健康医学・自然療法への回帰Vol.2 「自然が治癒し、医師が処置す」

2022.05.13

…人間は科学と技術によって自然を操作することに慣れ、科学とその道具なしには生きられないと思いこみすぎたようだ。

そして自分も自然界の生物の一員であることを忘れてしまった。

自然を加工し、自動車や航空機をつくりだして自然界に君臨したつもりだが、生身の体はかえって弱体化したのである。

伝染病がはやっても、罹患する者もあれば平気な者もいる。

同じ病原体に侵されても、重症になる者もいれば薬も飲まずに治ってしまう者もある。

健康体とは、病気にならず、病気になっても自然に回復する生命力が十分に備わっている心身をいう。

それが『自然治癒力』であり、いかにそれを強化し、病気を寄せつけない身体にするかを考えるのが、本当の医学というものである。

西医学健康法とは、一言でいえば、自然治癒力強化法である。[1]

 

これは、西医学健康法の創始者・西勝造に師事し、西医学研究所所長を務めた渡辺正医師(医学博士・渡辺医院初代医院長)が、1994年7月に上梓した著書にある言葉です。

 

渡辺正(医学博士・渡辺医院初代医院長)

ここで西医学健康法において重要な役割を担った渡辺正医師について、少しだけご紹介させていただきます。

渡辺が西勝造のことを知ったのは、終戦の年昭和二十年の秋のことでした。

その年の三月に北海道大学医学部を卒業してすぐ軍医学校に入りましたが、故郷の山梨県・万沢に帰っていました。

 八月十五日に終戦となり、大学生のころから読んでいた雑誌「東亜連盟」の主宰をしていた石原莞爾[1]に会いたいと思いたち、山形県の鶴岡市まで出掛けていきます。

石原の名著「世界最終戦論」を読んで、信頼し得る指導者は石原以外にないと確信していたといいます。敗戦の混乱の中で日本の将来、世界の動きについてはっきりした的確な見通しを持ちたいという、やむにやまれない気持ちだったのです。

この訪問は、アポなしだったと渡辺は言っています。

石原莞爾(関東軍作戦主任参謀)

一面識もない渡辺を石原は快く迎え、熱心に戦争放棄に徹底して永久平和のモデル社会を日本に建設する必要があること、その際に「都市解体、農耕一体、簡素生活」の三原則を基本とすべきことなどを説いたということです。

特に、人間の真の健康は大自然に則った生活をしなければならないこと、そして人頭獅身、つまり科学的で優れた頭脳と強靱な身体を持つことが必要だと強調していました。

そして、渡辺が医者の卵だと知ってか、西勝造の話を聞かせてくれたのです。

 

西先生は医学の天才である。

先生は朝食は食べないで一日二食でよろしい、西洋医学のカロリー説は間違っている、生野菜食だけで生きていけるどころか、病気などは治ってしまうと主張しておられる。

 

渡辺は西洋医学を学んだ徒として、「石原先生の口から語られねば、とうてい信じられない話しだった」と回想しています。

石原の西医学の理解は明瞭で、自らも朝食なしの2食主義を実行し、西医学健康法が全国に普及するように尽力していたといいます。

午前九時ころにお宅を訪れ芋がゆの昼食をごちそうになって辞去した渡辺は、この時、西医学を勉強しようという決意を固めたのです。

翌年、渡部が東京の杏雲堂病院に勤務していた時、偶然、病院の斜め向かいにある明治大学で、西勝造が「健康と手相」「西医学」などの講演をすることを知り、聞きに行きます。

渡辺の西医学に対する理解が進むにつれて、西洋医学が薬と手術に頼るだけで非常に無力だと痛感するようになりました。

しかも、薬には副作用があるのです。

これを機に、どんどん西医学に引き込まれていったということです。

その後、北大の内科教室に戻り、苫小牧市立病院勤務を経て、石原莞爾が永眠する山形県庄内の遊佐町に開業、庄内で3年を過ごした後、西勝造のすすめで現在の東京都中野区に開業することになります。

渡辺は当時、「薬づけ医療の害」を看破し、次のように語っています。

…日本全国はもちろん、はるばるアメリカや南米からもさまざまな難病患者がやってきた。

内科だ小児科だなどとはいっていられない。

眼科や耳鼻科や産科もないのだ。あくまで生体は一者。

病の原因さえつかめば、その出所によって医者がお手上げになる必要はないのである。

西医学の治療によって、私の医院からは不治といわれる数々の難病が治っていった。

患者のみなさんは私に礼をいうが、私はただ彼らの自然治癒力に手を貸したにすぎない。

西医学というのも、決して特別な秘法ではなく、誰にでも備わっている自然治癒力を引き出す方法にすぎないのである。

しかし、現代人にその大事な自然治癒力を忘れさせ、そればかりか薬づけにして無力化をはかるのが科学の申し子の現代医学なのだ。

薬づけの医学にはもう毒されてはなるまい。

…この健康法が理解され実践されることによって、人間本来の自然治癒力が回復されること、それが私の大きな願いである。

それが真の医療であるはずだ。

渡辺正『薬づけ医療からの脱出!』1994年 現代書林

 

上記の渡辺の著書『薬づけ医療からの脱出!』は以下のように締めくくられています。

 

…しかし、そもそもの悪弊は、病気になれば医者にかかればいいとか、薬を飲めばいいという考え方だ。

病気は自分が治すものであり、医者はただ手を貸すにすぎない。

遺伝病や公害病ならともかく、病気というのは、自分自身が病気になる体をつくったからこその結果である。

真に健康であれば、細菌やウイルスも侵すことはできないのだ。

何よりも自然治癒力を信じ、自然に即した生活をすることである。

ライフスタイルを見直し、人工の薬は極力やめること。

誰かがクスリは反対から見ればリスクになるといっていたが、まさにクスリとは大きなリスクがあるものなのだ。

自然には、生水や生野菜というリスクなしの優れた薬がごく身近にあるのである。

それを活用しない手はないだろう。

 

西洋医学の開祖ヒポクラテスは「自然が治癒し、医師が処置す」と言い、「医は自然の治癒機転を模倣する術なり」とも言い、医師が経験浅く、処置法のわからない時は、自然に任せて自然の治癒機転を妨害しない事も教えています。


Reference

1 出典『現代医学の常識をくつがえす西医学健康法─薬づけ医療からの脱出!』1994年 現代書林

2 石原莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)1月18日〈戸籍の上では17日〉 – 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満州事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。

帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満州国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。東亜連盟も指導し、予備役編入後は立命館大学講師も務めた。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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