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逸脱者に不寛容な日本

2024.08.02

日本社会の良くないところとして、よく指摘されるのが、「本当のことを言うと非難されたり、罰せられたりする」ということがあります。

そうした風潮が行政や企業の「隠蔽体質」につながっているとの批判もよく聞きます。

行政やスポンサー企業などの不都合な真実を報道しない、テレビなどのマスメディアはその最たるものかもしれません。

社会学者のエミール・デュルケーム(Émile Durkheim)は『社会学的方法の基準』において次のような趣旨の指摘をしています。

 

犯罪は不本意ではあるが、社会の健全さを証すバロメーターでもある。

逸脱の程度を減らそうとする集団の意識が強くなればなるほど、逸脱に関する集団意識は敏感になり、気難しい社会となる。

他の社会であれば大きな逸脱に対してしか現れないような激しい反発が、小さな逸脱に対してさえも起きる。

 

デュルケームの言う通り、逸脱した個人を許容できない社会では、犯罪は抑止されることになりますが、創造もまた停滞することになります。

少数派の逸脱者によって多数派の規範がアップデートされることで社会は変化します。

だとすれば、わたしたちは逸脱者に対して寛容でなければならない、ということになります。

しかし、過去の事例を見る限り、日本では逸脱者に大きな社会的制裁が加えられることが少なくありません。

日本映画で初めてヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した黒澤明監督の「羅生門」は日本映画界から散々にこき下ろされ、太平洋をヨットで単独無寄港横断した堀江謙一は「ビザをとっていなかった」という理由で日本のマスコミから総攻撃を受けました。

海外の指揮者コンクールで優勝してバーンスタインとカラヤンの指導を受けて帰国した小澤征爾の国内での演奏会は、NHK交響楽団によるボイコットで潰され、メジャーリーグに挑戦しようとした野茂英雄投手の挑戦には、多くの野球評論家から「通用するはずがない」「メジャーを甘く見るな」と罵詈雑言が浴びせられました。

まさにデュルケームの言う通り「他の社会であれば大きな逸脱に対してしか現れないような激しい反発」があらゆる逸脱に対して起きるのがわたしたち日本の社会なのです。

ということで今回は、ある機関誌に興味深いコラムが掲載されていましたので要約してご紹介します。

 

学長の不正を糾弾した教授が不当に解雇される。

政府や学会に睨まれた研究者が閑職に追いやられる。

こんな話は、コンプライアンスが重視されるようになった現在もなお、頻繁に見られます。

なぜ日本では正しいことを言った人が、評価されないのでしょうか。

その歪んだ構造とは何なのでしょう?

第1回ノーベル賞を日本が逃した理由についても考えてみましょう。

社会の大勢に逆らい、間違っていると思ったことを声に出して言うには、かなりの勇気が必要です。

そんな勇気ある行動をしたのに、しかもそれが正しかったと誰もが認める状況になっても、日本において告発者たちは賞賛されるどころか、冷遇されることが多いのです。

古くは明治時代、東大の細菌学者緒方正規や軍医・小説家の森鷗外と対立した北里柴三郎。

今では「近代日本医学の父」と称される彼も、権威を批判して苦境に立たされた人物でした。

当時、日本は脚気(かっけ)によって年間数万人が死亡する深刻な状況でした。

その治療法の確立が求められる中、緒方や森は「脚気は細菌が引き起こす」と主張。

一方の北里は、留学先のドイツで「脚気は細菌とは無関係」と結論づけました。

実際、脚気はビタミンB1の欠乏が原因なので、北里の説が正しかったのですが、緒方は北里に細菌学の手ほどきをした人物だったため、北里は「忘恩の輩」として非難されました。

留学先のドイツから帰国した後も、東大と対立した北里を受け入れる研究所はありませんでした。

内務省が北里を招聘して伝染病研究所を作ろうとした際も、東大と文部省の大反対で実現しませんでした。

不遇を嘆く中、幸運にも福沢諭吉が私財を投じて研究所を設立し、北里の研究者生命がつながりました。

研究所設立から2年後の1894年、北里はペスト菌を特定し、世界から称賛されましたが、国内では「北里が発見したのはペスト菌ではない」と非難する論文が相次ぎました。

1901年にノーベル賞が設立されたとき、第1回医学生理学賞を受賞したのは、血清療法の開発が評価されたドイツのベーリングでした。

しかし、この研究はドイツ留学中、北里と共同で行なわれたもので、北里の破傷風菌の研究から派生したものでした。

同じように候補者に挙げられたのに、片や国を挙げて応援され、片や国を挙げて足を引っ張られる…。

日本は栄えあるノーベル賞最初の受賞者を足の引っ張り合いで逃したのです。

東大の「脚気菌」派はその後も意見を変えず、日清日露戦争では脚気で3万人以上の死者を出しました。

1910年には鈴木梅太郎が脚気治療薬として世界で初めてビタミンを発見しましたが、これも認められず、鈴木のノーベル賞受賞チャンスも潰されました。

北里の功績を素直に認めていれば、脚気で兵士が死ぬのを防げただけでなく、日本人ノーベル賞受賞者が出るまで50年近くも待つ必要はなかったでしょう。

1956年に公式発見された日本4大公害病の一つ「水俣病」でも、告発者は不遇でした。

熊本県水俣湾付近で原因不明の奇病が発生したとき、熊大医学部はチッソの工場排水が原因ではないかという説を早々に発表していました。

1959年には、原因物質が有機水銀である疑いが高いことを報告していました。

チッソ内部でも秘密裡に検証が進められ、1959年には有名な「猫400号」実験で工場排水が原因であるとほぼ特定されていましたが、チッソはこの事実を隠蔽しました。

熊大の発表に衝撃を受けたのが、まだ20代の宇井淳でした。

彼は東大卒業後に就職した日本ゼオンで、塩化ビニル製造工程で出た水銀を夜中に川に流すという経験をしていたからです。

原因究明を決意した宇井は、東大大学院応用化学専攻修士課程に入学し、1963年からは「技術史研究」に「富田八郎」のペンネームで「水俣病」の連載を開始しました。

1965年、宇井は新設の東大都市工学科の助手に就任。

同年、新潟県阿賀野川流域でも同様の病が発生し、実名での告発を開始しました。

水俣病の原因が有機水銀を含んだ工場の廃液であると国が正式に認めたのは、1968年になってからです。

宇井は、これによって東大での出世の道は絶たれ、21年間も助手に据え置かれることになりました。

その後、東大を辞め、沖縄大学法学部教授として晩年を過ごしました。

告発者に冷たい日本の社会構造について考えてみましょう。

普通に考えれば、正義心から告発し、それが社会の利益になったのであれば、告発者はヒーローになってもおかしくはありません。

現にアメリカなどでは、告発した研究者が一時的に不遇な境遇に陥ったとしても、正当性が認められれば名誉は回復され、英雄扱いされることが多いです。

仕事に困ることもありません。

しかし、日本ではそうはなりません。

日本では一般企業の内部告発者が冷遇されがちであるというのはよくある指摘ですが、合理性や事の真偽を重視するはずの学術界でも例外ではありません。

むしろ、もっと露骨に見えるくらいです。

筑波大学の掛谷英紀准教授は、こうした日本学術界の特徴を「職能ギルド」と表現しています。

「神学をベースに学問が発展してきた欧米とは違い、その下地がない日本では“学問とは何か”という概念が根付いておらず、学者であっても職能集団に近い」のだというのです。

日本学術界が職能の占有、知識の囲い込み、徒弟制度といった性格を持つギルドだと考えれば理解できます。

親方に絶対服従のはずの弟子がその頭を飛び越えて口を開き、ギルドの秩序と威信を損なわせるなんて、許されざる行為なのです。

英語では、告発者は「ホイッスルブロワー」(警笛を吹く人)と言います。

日本語だと、「密告」「裏切り」といった後ろ暗い語感が想起されますが、英語では「勇気ある人」という前向きなニュアンスです。
制度も手厚いです。

アメリカでは、大規模な不正行為が発覚すると、企業は重い罰金を課されますが、その一部(10〜30%)は告発者に報奨金として支払われます。

これにより、個人が正義を追求するだけでなく、告発のメリットや、万が一の退職時にも生活が保障される安心感が与えられます。

一方で日本では、2022年6月に改正公益通報者保護法が施行されましたが、企業からの内部告発者への解雇や降格などの報復に対するペナルティは盛り込まれていません。

このため、内部告発は依然としてリスクが大きく、メリットが少ない状況が続いています。

個人の不正行為には厳しく対処しつつも、組織の過ちには口を閉ざすという風潮が、日本人の社会心理に根ざしていると言えるでしょう。

このような現状は、社会制度の在り方にも深く関わっています。

日本の学術界がこの課題をどう克服していくのか、その光明は見えてくるのでしょうか。

 


 

Note

『Renaissance Vol.15』

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