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2024.07.19
2014年6月、高血圧治療薬「ディオバン」の臨床データが改ざんされたことが発覚し、日本の臨床硏究に対する世界的信頼が失墜した。
当該論文の発表当初から疑義を投げかけてきた桑島医師が、「事件の顛末」と「その裏に隠された真実」を暴き出す。
桑島巖(くわじま・いわお)NPO法人臨床研究適正評価教育機構(J-CLEAR)理事長
1971年岩手医科大学卒業。元東京都健康長寿医療センター副院長/顧問、高血圧学会功労会員、日本循環器学会元評議員。「ディオバン事件」をきっかけに、臨床硏究の適正な評価を目的としたNPO法人臨床研究適正評価教育機構(J-CLEAR ホームページhttp://jclear.jp)を立ちあげ、理事長を務める。著書に『赤い罠:ディオバン臨床研究事件』(日本医事新報社)、『高血圧、変わる常識、変わらぬ非常識』(ライフサイエンス出版)など多数。
目次
そもそも「ディオバン事件」とは製薬会社ノバルティス社(以下、ノバ社)が発売する高血圧治療薬“ディオバン”が他の治療薬に比べて優れていることを示した大規模臨床試験において、大幅な改ざんがあることが明らかとなり、データ作成に関わったとされるノバ社社員が逮捕された事件である。
研究論文不正で逮捕者が出るという事例は前代未聞であり、このニュースは国内のみならず海外メディアをも巻き込む大騒動に発展した。
そして本事件は製薬会社の営利第一主義を暴きだすとともに、大学や医学会が患者の命や医学研究よりも名声や利益を優先させるという闇を照らした。
京都府立医科大学M元教授は、就任早々教室の研究費を捻出するために臨床試験を行うことを思いつき、ノバ社に同社の新薬ディオバンの臨床試験を行うことを提案した。
ノバ社は宣伝効果が大きいと判断し、提案を受け入れるとともに多額の研究費を医局に寄付した—。
「京都ハート研究」と命名されたこの臨床試験は、高血圧の患者をディオバン治療群と従来薬治療群に無作為に振り分けて5年間追跡し、心筋梗塞、脳卒中などの疾患(以下イベントと略す)の発生を比較する大規模臨床試験であった。
2009年に医学雑誌および国際学会で発表されたその結果は、「ディオバンで治療された患者は、ディオバン以外の薬を処方された患者に比ベて45%もイベント発生率が少なかった」という、なんとも驚くべき内容であった。
その“常識を越えて良すぎる結果” に疑念をもつ研究者も少なくなかったが、ノバ社がこのビジネスチャンスを逃すはずもなく、医学系雑誌で大学教授たちを利用して大々的に宣伝した。
その結果、ディオバンは年間売り上げ1400億円を突破するにいたった。
筆者は発表当初から、次のように主張してきた。
「この試験は、担当医師にはどちらの薬を処方しているのかが分かる方法で行われた。そのためディオバン治療群が有利になるように現場の医師がデータを操作した可能性が高く、信頼性に乏しい」
しかし、学会はまったくこの問題に関心を示す気配がなく、事態はうやむやに終わるかと思われていた。
2012年3月6日夜に送られてきた、京都大学循環器科油井医師からのメールで事態は一変した。
その内容とは、「東京慈恵会医科大学が行ったディオバンに関わる臨床試験(慈恵ハート研究)の論文には、試験開始・終了時の血圧値が、それぞれ試験薬・対照薬を処方した場合で完全に一致するという奇妙な現象がみられる」との指摘である。
いわく、「血圧はその時々の身体状況や精神状況によって大きく変化しやすく、両群の治療後の血圧値が完全に一致する可能性はありえないため、その奇妙な減少の疑義を世界的雑誌ランセットに投稿したのだ」という。
その主張がみとめられ、論文は雑誌掲載から撤回された。
同じ頃、「京都ハート試験」の論文の検査データに「単なる誤記や入力ミスではありえない多数の誤り」があることが明らかになり、日本循環器学会は京都府立医科大学に調査を命じた。
これを受けて京都府立医科大学も重い腰をあげ、真相究明に動きだした。
2カ月におよぶ外部機関による詳細な調査結果が翌2013年7月に発表されたが、その内容は驚くべきものであった。
調査可能であった223例のうち、イベント発生が実際にはなかったのに、「ある」よう に改ざんされた例は対照薬群の20例にみられ、逆に実際にはイベント発生があったのに、「なし」と改ざんされた例が9例にもみられた。
明らかにディオバン群有利にみせかける工作改ざんが行われていたのである。
つづいて東京慈恵会医科大学もカルテの調査を実施したところ、血圧値が両群同じになるような操作が行われたことが判明した。
筆者は同年4月に日本医師会幹部と面談し、この問題に関する現状を報告していた。
日本医師会は「医師と患者をあざむく重大な問題」と認識し、「医療に対する信頼を失墜させる懸念があること」や、「臨床試験にもちいられた薬剤と費用が保険で賄われていること」に遺憾の意を表するとともに、ノバ社に説明責任を果たすよう要求した。
この日本医師会の声明を受けて、全国各地の医療機関ではノバ社の製品をボイコットする動きも出始めた。
また日本政府も「日本の医薬品の信頼性と臨床医学研究の信憑性を損なうもの」と認識。
当時の田村厚生労働大臣は真相究明と再発防止を求めて、調査委員会を発足させた。
筆者も日本医師会の推薦により委員のひとりに選ばれ、同年8月から翌14年3月にかけて、合計5回の本委員会と、別個に5回におよぶ関係者へのヒアリングが行われた。
ディオバン関係の臨床研究を行い論文を発表した5つの大学(東京慈恵会医科大学、京都府立医科大学、千葉大学、名古屋大学、滋賀医科大学)への聞き取り調査で、とくに注目すべき点は、全ての研究においてノバ社元社員、S氏が試験のデザイン設計から実施、統計、論文作成において深く関与していたことである。
東京慈恵会医科大学ではイベントのデータを登録した医師別に調査したところ、研究責任者であるM教授によってディオバン群が有利になるように恣意的にイベント発生数が操作されていたことも判明した。
ノバ社は、本研究を行う見返りとして奨学寄附金の名目で、2002年から毎年3000万〜4000万円を京都府立医科大学循環器科に寄付していた。
また「京都ハート研究」以外に、ディオバンの臨床試験を行った東京慈恵会医科大学、名古屋大学、千葉大学、滋賀医科大学などにも総額11億3000万円におよぶ経済的援助を行っていたことも判明した。
しかし本委員会には強制力がなく、研究者と製薬会社の主張に齟齬があったために、真相を究明するには限界があった。
そこで筆者は「本件を立件して法廷の場で真相を明らかにすべきである」と提案し、それを受けて厚労省は薬事法違反の疑いで、ノバ社と元社員を東京地裁に告訴した。
こうして2014年6 月、ノバ社元社員が逮捕されるという、論文不正事件としては異例の事態となったのである。
2015年12月、東京地裁において、ノバ社およびノバ社元社員を被告、厚労省を原告として一審裁判が開始された。
意図的改ざんの有無と、論文の改ざんが虚偽広告・誇大広告に該当するか否かを巡って、以後40回にわたる公判が行われたのだ。
検察側は、ノバ社元社員の自宅から押収したUSBメモリーから、消去されたデータを全て復元した。
そのファイルを分析すると、元々のウェブ入力にはなかった45例のイベント発生データが水増しされ、ノバ社元社員はそれを元に解析データを作成していたことが判明した。
その架空の45例の真偽を巡って、検察と弁護団の激しい応酬が行われた。
水増しされたイベントは、一過性脳虚血発作や狭心症などの客観的評価が困難な疾患が多かったが、これらはカルテには記載のないものがほとんどであった。
また試験に参加した担当医の中には、自ら架空イベントをねつ造したことを認めた医師もいた。
「試験薬に有利になるようにすれば、地方の関連病院から京都市内の医療機関に戻してくれることを期待して行った」との告白もあり、大学教授を頂点とする医局制度の悲哀を垣間見せることとなった。
ノバ社元社員逮捕から約2年9力月後の2017年3月16日、「被告は無罪」とする意外な判決が下された。
裁判長は「ノバ社元社員が意図的に論文データを改ざんしたことは全面的に認めるが、論文は広告には該当しない」、 すなわち「不正が行われたことは明白ではあるものの、 法的には無罪」という、世間一般の感覚としては理解しがたい判決を下したのである。
裁判長の解釈は、「わが国の薬事法の立法過程とその時点の法解釈を考慮すると、薬事法66条1項の規制対象は広義の広告(虚偽または誇大な広告)である」というものだった。
薬事法では、①顧客誘引性、②特定医薬品等の商品名が明らかにされている(特定性)、③一般人が認知できること(認知性)の3つの条件を満たすものを「広義の広告」と位置づけている。
本件は①と②については該当するものの、③の「認知性」については、「学術論文自体が一般人や医師の購入意欲を喚起、昂進させる“広告”手段とは言いがたい」と解釈された のである。
判決の最後に裁判長は、「虚偽の情報を研究者に故意に提供して、学術論文を作成・発表させる行為は、その弊害に鑑みてなんらかの規制は必要である。しかし現在の法律で裁くのは無理があり、新たな立法措置で対応する必要がある」と付け加えた。
裁判は、その後の2審でも無罪。
最高裁でも1審判決が覆ることはなく、無罪が確定した。
本事件の「不正はあったが違法ではない」という判決は、わが国の法整備の欠陥上やむをえないものではあった。
「被告が故意にデータをねつ造した」という検察側の主張が全面的に認められた点で、真相究明を目的として告訴した国側にとっては大きな意義があったといえよう。
しかし、「被告による不正操作はあったが違法ではない」という、一般常識から乖離した判決結果では、多くの大勢の国民が納得しないであろう。
ここに、科学論文を法で裁くことの難しさがある。
学術誌に論文を投稿して掲載してもらうことは、 顧客誘導性を1つの要素として含む「広義の広告」とはいえないという法解釈であった。
とはいえ実際には、企業は自社製品に関する臨床研究に対して「奨学寄附金」の名目で資金を提供して研究者を支援した。
なおかつ、不正操作によって作成された論文の結果を全国の医師向け講演会で宣伝させたうえ、雑誌広告などにも掲載した。
こうした事実が医師の処方動機を喚起・昂進させた、すなわち顧客誘引性があったことは明らかである。
つまりこれは典型的なステルスマーケット(ステマ)商法である。
法律的には無罪であっても、医師を欺き、不適切な処方行動を惹起し、不適切な治療法を選択させたという意味で、ノバ社の社会的責任は極めて大きい。
なお、2019年3月19日の閣議では、「医薬虚偽広告に対して売上金の4.5%の課徴金を課す制度を創設する」と発表されている。
ノバ社はディオバンで約1兆円を売り上げたのだから、450億円を目安として法の成立を待たず国庫へ還元すべきであろう。
本事件の根本原因は、医薬品企業および医師の学問に対するモラルの欠如ということにつきる。
大規模臨床試験は、エビデンスに基づく医療を実践するうえで重要な手段であるが、今事件では、企業がこれを利用して営利にむすびつけようとした。
一方、試験の責任者となった大学教授達は、大規模臨床試験を実施することで「企業からの研究費」、「世界的な医学雑誌への掲載」(名誉)、「医局のまとまり」といったメリッ卜を期待したのである。
企業、責任医師とも、国民や患者の健康貢献や学術的探究心は二の次、三の次になってしまった。
この双方における医療モラルの欠如が、本事件の最大の原因であろう。
本事件の結果をうけて、2019年4月から「特定臨床研究法」が施行された。
しかし、本法律は「論文不正を罰する法律」ではなく、「論文不正を防ぐためのプロセスに対する法律」である。
とくに、種まき試験とよばれる企業支援の登録研究では本法は適用されないなどの盲点がある。
種まき試験とは、新規治療薬を従来群にランダマイズせずにその有効性を比較する方法であるので、本法が適用されないとなれば、不正の入り込む余地が多分にある。
「法規制は研究を萎縮させる」との反対意見も予想されたが、わが国の臨床研究の信頼性を取り戻すためにはやむを得ない対応であった。
むしろ不正に関わった医師に対しては、学会員の地位剥奪や研究費の打ち切りといった罰則は必要であろう。
だが現実にはディオバン事件に関わった医師が教授に居座りつづけ、しかも学会の代表理事にまでに上り詰めるなど、日本の学会はかなり甘い。
じつは本事件と相前後して、日本高血圧学会でも類似の事件がおこっていた。
武田薬品が、自社で発売する治療薬の臨床試験結果を事実と異なる内容で宣伝していたことが明らかとなり、厚労省から「誇大広告にあたる」として業務改善命令を受けた。
やはりディオバン事件は氷山の一角だったのである。
不適切な利益相反によって研究にバイアスがかかると、不正が起こりやすくなり、結局は被験者や国民が不利益を被ることになってしまう。
そのような事態を防ぐため、まずは不適切な利益相反の監視が重要である。
そこで2009年、同じ意思を持つ教授らとともにNPO法人臨床研究適正評価教育機構(J-CLEAR)を設立し、臨床研究に関する情報を発信している。
「ディオバン事件」の判決を通して私は、研究者、医師、製薬会社は医療モラルを守り、真の学術的探求心を持つことが重要であると痛感した。
そうでなければ、患者や国民から信頼される存在にはなれないのだ。