社会
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人間が、人間らしく生きる環境
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人間が、人間らしく生きる環境
2023.10.13
今回の投稿は趣向を変えて、主には「歴史」のお話しです。
そして今回登場する人物は、古代中国の始皇帝と呂不韋(りょふい)、徐福(じょふく)ですが、近年の研究で、彼らにはユダヤの血が流れていたのではないかと考えられているのです。
これが史実だとすると、わたしたち「日本人」にも大きく影響してくるのです。
何故なのでしょうか?
紐解いていきましょう…。
古代中国の歴史の、とくに偉人の生涯を壮大なスケールで描いたのが、小説家の宮城谷昌光氏です。
宮城谷氏の著書では『奇貨居(お)くべし』に、始皇帝の父ともいわれる呂不韋の物語が綴られています。
筆者は宮城谷氏の著作のファンです。
著作のほとんどを読んでいますが、司馬遷の『史記』から、よくもここまでストーリー展開できるものだと感心します。
もちろん歴史の勉強になりますし、当時の世の中を想像しながらワクワク、ドキドキが止まりません。
小説は作者の歴史解釈の余地があり、「そうだったかもしれない」という面白味があります。
歴史のIfですね⁉︎
これまで、あまり歴史に興味がなかった方も、この記事をきっかけにぜひ手にとって頂ければと思います。
田中英道 東北大学名誉教授
しかし本稿は、小説や都市伝説などから離れて、より学術的な考察からお届けしたいと思います。
ということで本稿は、主に歴史を「文献」だけでなく、「形」から読み解く独自の「フォルモロジー(Formologie)」または「形象学」という美術史の学問を解析手法に応用する東北大学名誉教授の田中英道氏の研究をベースにご紹介します。
田中先生はフランス、イタリア美術史研究の第一人者で、国際学会で副会長も務め、その一方日本美術の世界的価値や日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務めておられます。
ちなみに筆者は、戦後の偏った歴史家の歴史観に縛られない田中先生の研究に大いに興味を持ち、先生のオンライン講座も受講しています。
智の巨人といわれた上智大学名誉教授の渡部昇一先生が「いわゆる昭和史家の昭和史はダメである」と批判しておられます。
おそらくそれは、以下のような理由によるものと思われます。
渡部昇一 上智大学名誉教授
歴史教育は、国の教育の根幹を成すものです。
しかし、我が国の歴史教育の実態はどうでしょうか?
戦後、日本の歴史学会では、歴史全体を語ることをしようとしなくなっています。
学問が細分化されると同時に、イデオロギー化され、マルクス主義的観点(階級闘争史観)からしか歴史を見ようとしません。
たとえば、古代エジプトのピラミッドの建造にかかわった人々に報酬が支払われていたことが考古学の研究でわかっていますが、この階級闘争史観は、何でもかでも権力者がいて搾取された奴隷がいて…という構図でしか見ません。
ですから、巨大なピラミッドは「支配階級の強大化である」と、すべてをそこに結びつけようとするのです。
カール・マルクス
社会主義というのは、グローバル・ユダヤの一つの手段です。
ロスチャイルドが姻戚関係にあったカール・マルクスに出資して『共産党宣言』や『資本論』を書かせたのも、ワンワールド(世界統一)への志向があったからでしょう。
今日、共産主義は暴力革命によるものであり、すでに古びたものだと考えられています。
しかし、世界ではフランクフルト学派─ハンガリーの共産党員でマルクス主義者のG・ルカーチ(Lukács György)の思想的影響を受け、1924年に創設されたフランクフルト大学の「社会研究所」に端を発する─と呼ばれる一部のユダヤ人たちが、マルクス主義にフロイトの心理学を取り込み、共産主義の形を文化問題に変容させました。
たとえば、フランクフルト学派を代表する思想家アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund)やホルクハイマー(Max Horkheimer)、ライヒ(Marcel Reich-Ranicki)、フロム(Erich Seligmann Fromm)、F・ノイマン(Franz Leopold Neumann)、F・ポラック(Friedrich Pollock)、H・マルクーゼ(Herbert Marcuse)など、一見すると、新しい学者たちの革新的な動きと見えたものは、実は伝統的な文化の完全否定です。
彼らは、ナチスの台頭とともにアメリカに亡命、その後コロンビア大学社会科学国際研究所を牙城としたわけですが、コロンビア大学をはじめアメリカの大学の人文学部の大半は「隠れマルクス主義」の傾向が強く、留学した学者や外交官の卵がマルクス主義に傾倒して帰国する例が多いのです。
それが戦後の日本をつくりあげる、イデオロギーとなったわけです。
つまり、民族や国家が保守的な文化を持っていると、ナチスドイツのホロコーストのような事態が再度引き起こされかねないと主張し、各国の文化を破壊し始めたのです。
彼らは、そのためには〝伝統的な文化がもつ強さ〞を徹底的に破壊したい、されば〝歴史を忘れさせる〞必要があると考えたわけです。
それを米国CIAの前身であるOSS(Office of Strategic Services 米戦略情報局)が、GHQを通じて(日本改造計画として)日本の戦後教育に持ち込み、「神話は嘘だ」「神社は迷信で意味がない」「あらゆる伝統的文化は、軍国主義に結びつく」として、1945年9月20日、全国の国民学校に通達、歴史教科書の不都合な部分を黒く塗りつぶしたのです。
さらに不都合とされた書籍は7,769冊。
これを全て「焚書」、または「禁書指定」としたわけです。
明治維新の時に、日本の建国を、初代神武天皇が即位した紀元前660年2月11日と定めており、紀元節(戦後は建国記念日)として国民の祝日になっています。
しかしその意味を学校で教えることはなく、歴史教科書でも無視していますので、おそらく9割の日本人は、「建国記念」の意味を知らないでしょう。
そもそも現在の教育では、神武天皇を歴史教科書で教えてはいけないことになっているのです。
戦後GHQが禁じ、これに協力したマルクス主義(共産主義)の歴史学者たちがこの方針を墨守して四半世紀が経ったわけですが、これが渡部昇一氏が批判しておられた昭和史家のことです。
これも敗戦の後遺症です。
こうして敗戦後の日本人は、建国の記憶を抹消され、自虐史観を植えつけられ、嘘の歴史という教育の犠牲者となったわけです。
日本の現政権の言説は、表向き「保守」に見えますが、実際に行っている政策は、明らかに隠れマルクス主義の傾向が見てとれます。
今日、ネットなどで他人を中傷するハラスメントが頻発し、社会的な問題となっていますが、これもこうした社会的風潮の悪影響を受けた人々によるものでしょう。
また多くの問題が指摘される「ジェンダーフリー」や「LGBTQ」などの議論は、マルクス主義的観点(階級闘争史観)が生み出した批判理論による悪害です。
戦後の天皇家に対する批判なども同様です。
実際、学校で習う歴史は隠蔽、改ざん、歪曲、そして暗記ばかりでつまらない、というのが定評となっていますが、田中英道先生が教える世界史・日本史はさぞ面白いだろうと思います。
…と、難しい話しはこれくらいにしまして…
さて、日本の歴史には、ユダヤの痕跡が多く残されています。
主に関東地方の古墳から多く出土する「武人埴輪」が、正統派ユダヤ教徒のファッションとよく似ていますが、偶然でしょうか?
山伏(修験者)が額につける兜巾(ときん)が、ユダヤ教徒が儀式で額につける小箱のテフィリン(ヒラクティリー)とよく似ていますが、偶然でしょうか?
諏訪神社でかつて行われていた儀式―木に縛りつけた少年を神官が剣で刺す所作を行うという奇祭が、『旧約聖書』創世記の「イサクの燔祭(はんさい)」とよく似ていますが、偶然でしょうか?
稲荷神社などの赤い鳥居は、『旧約聖書』出エジプト記の「過越(すぎこし)」―門柱と鴨居を羊の血で赤く塗った話とよく似ていますが、偶然でしょうか?
神社の氏子が神輿を担ぐ様子は、古代ヘブライ人の祭祀階級であるレビ族が「契約の箱」を担いだ様子とよく似ていますが、偶然でしょうか?
皇位継承のシンボルである「三種の神器(鏡・剣・勾玉)」が、「契約の箱」に収められたという「モーセの石板・アロンの杖・マナの壺」と似ていますが、偶然でしょうか?
エルサレム旧市街のヘロデ門に刻まれた紋章は、皇室の紋章である菊の御紋(十六弁菊花紋)とよく似ていますが、偶然でしょうか?
京都祇園祭の山鉾巡行は毎年7月17日に行われますが、「ノアの方舟」がアララト山に辿り着いたのも7月17日ですが、偶然でしょうか?
また、「祇園(ギオン)」と「シオン」も似ていますし、エルサレムをヘブライ語で「エル・シャローム」と言いますが、これを日本語に訳すと「平安京」です。
これも偶然でしょうか?
※シオン(Sion):もとは、ダビデの支配下に入ったエブス人の町として登場する地名だが、神殿の丘の別名となり、のちにエルサレム全体、さらにイスラエルの地全体への形容詞ともなった。
ここにあげた「偶然」はごく一部ですが、これだけ重なると、もはや、偶然では済まされなくなってきます。
これらは、古代日本列島に、ヘブライ人(=ユダヤ人)が集団で渡来していた痕跡ではないでしょうか?
古代ユダヤ人渡来説を初めて目にした方は、「なんと荒唐無稽な」と思われるかもしれませんが、神道の儀礼・祭りや神社建築、記紀神話にいたるまで、古代ユダヤ教との共通点がたくさんあるのです。
紀元前722年に滅んだ古代ユダヤ王国の謎と、神武天皇が即位した紀元前660年を建国起源と定める日本文明勃興の謎…。
すでに明治時代に来日した外国人で、このような学説を唱える人たちがいました。
ユダヤを漢字で「猶太」と書くので、このような学説を「日猶同祖論」といいます。
しかし、最近のDNA研究で、日本人の最も古い祖先は「縄文人」であることが究明されています。
となると、“日本人の祖先はユダヤ人だ”というのは間違いですね。
時を遡り、古代のユダヤに関するお話しを少しだけ…
かつてローマ帝国は、基本的に緩い多神教でしたが、神々を認めず帝国の祭礼を拒否するキリスト教徒を反逆者として処罰しました。
五賢帝の時代(96〜180年)、断続的に迫害がつづく中で、イエスの教えを後世に伝えるため、ルカ・マルコ・ヨハネ・マタイの4つの福音書が成立します。
ローマ皇帝コンスタンティヌスによって、キリスト教が公認されたのが313年の「ミラノ勅令」です。
キリスト教が日の当たる場所に出るまで、実に300年かかったことになります。
嘆きの壁
一方、イエスを訴えたユダヤ教徒も一神教ですから、“ やっぱりローマの多神教はいやだ ”といって独立戦争を起こします。
66年に起きた「第1次ユダヤ戦争」ではローマ軍に攻め込まれ、エルサレムの「第2神殿」が破壊されます。
西暦135年の「第2次ユダヤ戦争」では徹底的に攻め込まれ、エルサレムは完全に廃墟となってしまいます。
この時、ローマ帝国のハドリアヌス帝が、
“もう二度とエルサレムには立ち入るな、年に1回だけ嘆きの壁の前で祈れ”
とユダヤ人を完全にエルサレムから追放しました。
これがいわゆる「ディアスポラ(離散)」の決定的な始まりです。
これ以降、ユダヤの人々には、ずっと国がありません。
1948年にイスラエル国が樹立されるまで、実に1800年もの間ずっと国がなかったのです。
これは、帰る国がある民族には決して理解できない苦しみであり、悲しみであり、屈辱です。
国を失った彼らは、覚悟を決めて、隠れた世界で大活躍を開始するわけです。
今日、世界の金融、エネルギー、メディア、医薬品、ブランドやファストフードのグローバルチェーンなど、メジャーな産業を支配しているのがユダヤ系の人々(グローバル・ユダヤ)です。
詳細は省きますが、「フランス革命」や「ロシア革命」、「ナチスのホロコースト」そして今日の「ウクライナ戦争」や「イスラエルでの紛争」、「アメリカ国民の圧倒的な支持を得るトランプ大統領が何故メディアの袋叩きにあうのか⁈」など、これらの背景には、迫害とディアスポラに端を発するユダヤ民族の深い事情が根底にあります。
この歴史を知っておかないと、現在の世界情勢を理解するのは難しいのではないでしょうか。
残念ながら、テレビや新聞などのマスメディアは表面的な、ある種どうでもいいような事しか報道していません。
ヘレフォード図
さて、天孫降臨の紀元前660年という時期以前、紀元前13世紀、出エジプトの時に、元々太陽信仰だったユダヤ人(失われた10支族)は、ヘレフォード図にある太陽が昇る国・日本(Le Soleil Levant)を目指してやってきました。
※ヘレフォード図:イギリスのヘレフォード大聖堂で発見された1300年頃の古地図。それは円形の世界地図で、中心がエルサレム、上が東、その一番上、つまり東の先端の日本がある位置と「エデンの園」が重なっている。
東の彼方が楽園だと記されているわけですから、当時のユダヤ人やキリスト教徒の間では、東へ行けば楽園のような国があると信じられてきたのでしょう。
これがユダヤ人渡来の第一波ですが、田中氏は全部で5回、渡来の痕跡が見てとれるといいます。
紀元前722年、世界に離散したユダヤ人たちが、最初の離散の危機となったのが「アッシリア捕囚」や「バビロン捕囚」(紀元前586年)ですが、この時に日本に渡来したのが第2波です。
彼らは日本建国に様々な影響を及ぼしたと考えられています。
この時代の歴史解析も大変興味深いのですが、またの機会にご紹介したいと思います。
狩野探道『天孫降臨』神宮徴小館・農業館所蔵
一方、日本列島が弥生時代に移行した頃、中国大陸では群雄割拠の春秋戦国時代がつづいていました。
昨今では、原泰久氏の漫画『キングダム』(集英社)が人気のようですから、最近の若い人にも馴染みがあると思います。
七大国が抗争を繰り返す中、秦という国が紀元前221年、中華統一を成し遂げ、秦の王様だった嬴政(えいせい)が始皇帝を名乗ります。
漢民族は、秦の次の漢王朝(劉邦)の時代に、様々な民族が「漢語」を共通とすることで徐々に形成されましたが、それ以前の戦国時代までは、いろいろな民族が勝手に国をつくっていたわけです。
中国には実に56 の民族が存在します。
これが中国の政治的難しさの根底にあるわけですね。
秦については「西戎の覇者」と『史記』に書かれていますから、西方の遊牧民をまとめた国ということでしょう。
これは明らかに「別の人種」という認識だったと思われます。
シルクロードの住民はモンゴロイドの漢人ではなく、コーカソイド(イラン人、ユダヤ人など)で、彫りの深い顔立ちです。
仏像も、遠くギリシャの彫刻がインドを経由して、この道を通り、日本に伝わったわけですが、東進するに連れて、彫りの深い彫刻が段々と平面的な顔になっていくわけです。
始皇帝の父親だった荘襄王が敵国で人質になっていたとき、これを助けて秦王に擁立したのは呂不韋という大商人です。
呂不韋もユダヤ人だったという説があります。
商才に長けているのがユダヤ人の最たる特徴の一つです。
呂不韋(中国語でリュブウェイ)という名前は、ヘブライ語系の男性名レヴィと同一であるという説もあり、この奇妙な名は明らかに漢人のものとは違い、ユダヤ人のものであることが推測されます。
また、呂不韋は羌族(きょうぞく)の出身だったという説もあります。
羌族とは、チベット高原に居住する少数民族(チベット系のチャン族)であり、またイスラエルの失われた10支族調査機関・アミシャーブが「失われた10支族」の末裔であると主張している民族でもあります。
彼は自分の愛人・趙姫(ちょうき)を荘襄王のお妃として差し出します。
しかし、彼女はその時すでに呂不韋の子を宿していた…という一説が『史記』にあります。
つまり趙姫が身籠もっていた呂不韋の子が、「秦」の始皇帝となってしまったのです。
ということは、呂不韋が羌族だとすると、その子と考えられる始皇帝はやはりユダヤ系であると考えられるのです。
兵馬俑
さらに『史記』には、始皇帝の容貌について、次のような一説があります。
“ 鼻が蜂のように高く、切れ長の目、鷹のように突き出した胸 ”
とあり、少なくとも漢人らしくないという意図が見てとれます。
また始皇帝のお墓から兵馬俑と共に出土した、馬車を操縦する始皇帝らしき男性像は「みずら」をつけ、ユダヤ人風の顔をしています。
そして時を経て、第十五代応神天皇の時代、秦の始皇帝の三世の孫「弓月君(ゆづきのきみ)」をリーダーとした1万人から2万人の人々が、新羅を経由して日本列島にやって来ました。
これは『日本書紀』に、はっきりとした記録が残っています。
平安初期の貴族の名簿『新撰姓氏録』にもはっきりと記載されています。
この年、弓月君が百済からやってきた。
奏上して「わたしは私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。
しかし新羅人が邪魔をしているので、みな伽羅国に留まっています。
宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』(講談社)
これ以降、日本に渡来したユダヤ系の人々を、秦の始皇帝の「秦」をとって、「秦氏(はたし)」と呼ぶわけです。
中国の秦王朝がユダヤ系だとすれば、秦氏もユダヤ系なのです。
そして応神天皇は、秦氏に京都の地を与えました。
京都という都の建設には、彼らの技術力が大きく影響しているわけです。
前述の通り、「祇園祭」にもその影響が如実に見てとれます。
ところで、ユダヤの人々は石の建築にも長けた技術集団です。
古来、国土の約7割が山の日本は、建築に木材を使ってきましたが、世界最大の古墳である仁徳天皇陵は石造りです。
現在は緑豊かな森に覆われていますが、木を取り払うと見事な石の建造物が現れます。
田中氏は、おそらくこれも渡来したユダヤの人々がもたらした技術だろうと述べています。
だとすると、古墳の建造技術が、後の城の城壁造りにも活かされたのでしょう。
彼らがもたらしたノウハウには天文学など、もっと沢山ありますが…。
そういえば、陰陽師の安倍晴明の家紋もイスラエルの国旗にも使われているシンボル「六芒星=ダビデの星」ですね。
日本が世界に誇る技術大国となった背景には、こうした血脈が影響しているのかもしれませんね。
また事実として、DNA鑑定において日本人のD2遺伝子がユダヤ人に近いといわれています。
これが、中国人や朝鮮人との大きな違いです。
D2遺伝子とは、父方をたどれるY染色体遺伝子のことですが、D2系統は古いモンゴロイドの遺伝子で、縄文人やチベット人に強く発現します。
これに対して中国人や韓国・朝鮮人は新しいモンゴロイドで、O2系統という遺伝子です。
ユダヤ人を含む中東の諸民族はE系統に属します。
このE系統と縄文のD2系統の起源を辿ると、約7万年前に東アフリカに住んでいた男性に起こった遺伝子の突然変異に行き着きます。
この変異を「YAP遺伝子」といって、日本人とユダヤ人がこれを共有しているのです。
またアラブ人やチベット人も、これを共有しています。
もはや日本人全員が混血であることは、DNA鑑定で明らかなのです。
最新の核ゲノムの分析では、弥生時代には縄文系が60%で、大陸系が40%でしたが、古墳時代には縄文系が20%を切ります。
したがって、古墳時代に大陸から日本列島へ大規模な人の移動が起きたことがわかります。
田中英道氏は、これを「日猶同化論」と呼んでいます。
日本人の祖先・縄文人に渡来したユダヤ人が同化して、今日のわたしたち日本人になったということです。
和歌山!県新宮市「徐福公園」
司馬遷の歴史書『史記』によれば、最初の皇帝として空前の権力を握った始皇帝でしたが、自身の肉体の衰えだけは止められません。
この頃は、まだ中国に仏教が伝わっていない時代です。
「来世」での救済を知らない始皇帝は死を恐れ、「不老不死の霊薬」を求めます。
これに応えたのが「方士(ほうし)」と呼ばれる呪術医たちで、徐福はその一人です。
徐福は、始皇帝に仕えた方士で、医術の他にも、卜筮(占術)」、気功、天文、祈祷、錬丹術などを専門とする道教の呪術師です。
田中英道氏は、ユダヤ人渡来の「第3波」は、始皇帝の命を受け、数千人の同志を引き連れて日本にやって来たこの「徐福」という人物によってもたらされたとしています。
『史記』には以下のように書かれています。
徐福が“東方の三神山に長生不老の霊薬がある”と始皇帝に具申したところ、三千人の若い男女と技術者集団に、財宝と財産と五穀の種を持たせ、東方に向かって船出させた。
三神山には着かなかったが、“平原広沢(広い平野と湿地の土地)”で王となり、秦には戻らなかった。
三神山とは、東方の絶海に浮かぶ仙人が住むといわれる「蓬莱(ほうらい)」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」の3つの島ですが、実在したとなると、済州島、対馬、北九州あたりでしょうか。
ところが、徐福が来日して各地に滞在していたという伝説は、青森県から鹿児島県まで、なんと20ヶ所以上も存在しています。
徐福渡来の地として名高い、和歌山県新宮市には蓬莱山と徐福の墓があり、隣市である三重県熊野市波田須町には徐福を祀る「徐福ノ宮」という神社があります。
半両銭
そして、この波田須町では、秦の時代の古銭「半両銭」も出土しているのです。
半両銭は全国で9ヶ所の遺跡から合計25枚も見つかっています。
10世紀の中頃、中国は南宋の時代に釋義楚(しゃくぎそ)という僧により編纂された『義楚六帖(ぎそろくじょう)』という仏教書には、徐福が富士山の麓にいたことが記されています。
顕徳5(958)年に渡宋していた日本人の僧・弘順大師(寛輔)から聞いた話として「徐福は各5百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山と呼び、その子孫は秦氏である」と伝えています。
『義楚六帖』に記された部分を日本語訳すると…
日本国、またの名は倭国。
東海にある。
秦の時代、徐福は5百の童男、5百の童女を率いて、この国にとどまった。
行き交う人々は長安のようである。
顕徳5年戊午(958)年、日本国の瑜伽大教・弘順大師である寛輔がこういった…(中略)
(都から)東北千余里には山があり、名を富士という。
またの名は蓬莱である。
その山は三面が海で、大きく上空にそびえ、山頂は火煙が上がっている。
日中には宝が山から下り流れ、夜になると上がっていく。
常に音楽が聞こえるかのようである。
徐福はこの地にとどまり蓬莱と呼んだ。
その子孫はみな秦氏という。
その国はこれまで他国に侵略されることがなく、龍神が守護する国である。
寛輔という僧は、10世紀に日本にいた秦氏は徐福の子孫だと、はっきり認識していたということです。
徐福とはつまり、始皇帝の側近のユダヤ人知恵者だったのではないでしょうか⁉︎
この記述に「日中には宝が山から下り流れ、夜になると上がっていく」とありますが、この「宝」とは、いったい何のことなのでしょうか?
筆者は蓬莱山(富士山)の麓に住み、毎日この山を眺めていますが、一体何なのか?
…もしかしたら、それは「水」でしょうか⁈
人体にとって最も重要な物質は水ですから、それが宝の正体かもしれませんね⁉︎
余談ですが、富士山は琵琶湖と並ぶ日本最大の水瓶のひとつです。
富士山に降った雨は、約54年の年月を経て浄化され、再び地上に戻ってくるといわれています。
そしてまた徐福は、「不老不死の霊薬」を手にいれることができたのでしょうか?
せっかく富士山の麓まで来たのなら…
そしてもし、タイムマシーンがあったなら、是非、弊社にも立ち寄って欲しかったと思います。
少しは、お役に立てたかもしれません…。
今回の記事はいかがでしたでしょうか?
少しは歴史に興味を持って頂けたでしょうか?
この機を逃さず、是非、「本当の日本の歴史」を学んでいきましょう‼︎
“奇貨居くべし”
これは、“与えられた機会を逃さない”という意味です。